HISTORY創業からの歩み

パチンコってのは、
いいもんだ!!

創業者 小山 仲治

1897(明治30年3月13日生)~1991年6月3日没(享年94才)

私はその頃、木炭の商売をしていて、営業で長野市へ出たんです。長野市でも2~3軒のパチンコ店が出来た頃でね。

ある日、仲間がパチンコっていう面白いもんが出来たから行かねえかって誘うんですよ。「こりゃ、おもしれえもんだ、めったやってれば随分増えて、金もだいぶ儲かるんだ」なんて言うもんだから、そりゃ出たらの話しだろ、オレはそんなところへ行かねえよってね(笑)。

でもあんまり何回も誘いにくるもんだから、それじゃ義理で行ってみることになってね。行ってみたら客がたくさん入ってて、随分どうも好きな衆がいうもんだなァって思いましたよ。それで自分もやってみたら「見ろ、ほらみんなへえっちまったじゃねえか」って調子でね。

こりゃ、パチンコっていうのは、いいもんだって思いましたね。それに、この商売は前金だから、他の商売みたいに売ったあとで集金する苦労がなくていいやっていうんで、こっちの商売に入ったんですよ。

アドサークル王様手帖王様特捜班報告 昭和12年幻の第一期黄金時代を探る より抜粋 小山仲治談

大正9年

12年
欧米より横型コリントゲームなどのパチンコ機の原型と言われるゲームマシンが輸入され、露天やデパートの屋上などで、子供相手のゲームとして始まった。(全日遊連25年史より引用)
大正13年
歳田製作所(金沢の歳田精一氏)が初の元祖パチンコ機と言われる「歳田式パチンコ機」を開発製造する。(小山仲治の記憶)
大正14年
8月
2代目小山仲一郎誕生

パチンコ創成期

昭和4年
中川清氏によって、中川式遊技機3~5台のパチンコ機を車に積んでパチンコの露天営業が始まった。(全日遊連25年史より引用)
昭和5年
名古屋の平野はまさんが、愛知県警の許可を得て、大人相手に遊技場を開設、その後各地にパチンコ店が続々現れる。(王様手帖より)
昭和9年
長野県では、長野市吉田に住むテキ屋の元締めと言われた方が、県警の許可を得て、吉田のお宮のそばで、歳田式10台そこそこのパチンコ店を開店(小山仲治の記憶)
一銭パチンコ時代、昭和9年頃の名
古屋市内(歳田式製作所)
昭和10年
全国にパチンコ店が続々と開店した(王様手帖より)

上田市内 日の出会館時代

昭和12年 日の出会館創業

昭和12年
先々代小山仲治が上田市馬場町で歳田式12台で遊技場を開店。「日の出会館」と命名した。
(王様手帖より)
「日の出会館」の「日の出」の由来は?

酉年生まれの小山仲治は。大変な早起きとして有名であった。毎日、夜中の3時には起床し、仕事をしていたそうである。お日様が上がる様子を毎日見ていた仲治は、店の名前を付ける際、真っ先にこの名前を思い付いたそうである。

昭和15年
軍備増強の風潮により、遊技機製造が禁止された。
昭和17年
企業整備令が出され、大部分のホールが廃業した。この頃、日の出会館は休業届けを出して、営業を休止した。

昭和20年 再開

昭和20年
「・・・終戦になってね、いよいよまたやってもいいことになって、警察に許可をとりに行ってね。そしたら『許可のあるものはいい』って。そうか、それじゃおれは許可をとってるからすぐに始めるって―戦時中に廃業届しないで休業届だったから、すぐに許可がおりてね、一番に店を開いたら、もうみんなお客さんがどんどん来ちゃって。まず面白かったですよ(王様手帖より 小山仲治談)
歳田式遊技機
昭和24年頃の日出パチンコの写真

屋代駅前 日の出会館時代

昭和30年 屋代駅前で新規開店!

昭和30年
屋代駅前(現在の食堂ドーンの場所)に、小山仲一郎が日の出会館を出店した。
昭和30年頃の日の出会館 3代目 小山泰一の幼少期
昭和32年
千曲市桜堂(現在の八十二銀行屋代支店)の場所に、小山仲一郎が「小山商事」を設立。後に丸三商事(株)と社名変更。電気機器販売・工事請負と遊技場等幅広い営業を行った。
昭和34年頃の小山商事の写真
昭和40年
昭和40年の頃は、パチンコ機の革命と言われたチューリップが開発され、大人気となった。「開け!チューリップ」というヒット曲も生まれた。
昭和45年
郊外型パチンコ店時代が始まった。国道18号沿線にいくつものパチンコ店が開店し、現在の千曲市桜堂(H書店)の場所に大きな駐車場を構えるパチンコ店が出店し、駅前型の日の出会館は不振に陥った。

ニュー日の出
(現・千曲市国道18号沿)時代

昭和48年 国道18号沿いへ移転!

昭和48年
小山仲一郎が、屋代駅前の日の出会館を売却して、現在の場所(バビデ千曲店)に店舗を移転した。そのとき店舗名を「ニュー日の出」と改めた。設置台数は当初100台ちょっとの小さな店だった。
「ニュー日の出」の名はこうして付けられた

屋代駅前から現在の場所(バビデ千曲店)に移転した時、店名をお客様から募集したところ、いくつかの候補の中から、この名前が一番わかりやすいと、2代目 小山仲一郎が決定した。

昭和55年
三共(現・SANKYO)フィーバー機登場。フィーバーブームが生まれた。
昭和56年
ニュー日の出を増床し、設置台数300台とする。ゼロタイガー等の羽根物が全盛期。
昭和56年頃のニュー日の出入り口
昭和60年
1ヶ月以上の休業を経てリニューアル。
昭和60年当時、リニューアルしたニュー日の出
平成3年
「日の出情報」より 会長 小山仲一郎
平成4年
エキサイト・アレンジ等によるアレパチブーム。
(株)藤商事 初代アレパチ・エキサイト
平成5年
CR機(プリペイドカードに対応したパチンコ機)の普及が始まった。
(株)西陣 初代CR様・花満開
平成6年
県内大手チェーン店が躍進し、ニュー日の出がピンチを迎える。

パーラーバビデ時代

平成7年7月
パーラーバビデ千曲店誕生

平成7年
CI(コーポレート・アイデンティティー)を行い、店名を「パーラー バビデ」と改め、設置台数を256台でグランドオープンした。
平成10年頃の千曲店
「バビデ」名前の由来

シンデレラ物語の中で、シンデレラをお姫様に変身させ、夢を叶えてくれた魔法の呪文「ビビデ・バビデ・ブー」の「バビデ」に由来します。そしてCS(お客様の満足)とES(社員満足)の両方を叶えていこうとする企業理念に繋がっています。

平成8年
8月
業界4団体が「高額な遊技料を必要とする社会的不適合機」として、現役稼働する98機種約70万台をホールから撤去する案を発表し、段階的に全国のホールから射幸性の高いパチンコ機が撤去された。
平成11年
スタッフの努力が実を結び大繁盛店となる
平成12年
サミーから発売されたスロット機「獣王」によりスロットブームが始まった。

平成13年
パーラーバビデ上田西店
新規グランドオープン

平成13年
12月21日
パーラーバビデ上田西を上田市神畑に新規グランドオープン。設置台数384台。
大雪の中を開店待ちするお客様
平成14年
サミーの「アラジンA」、大都技研の「吉宗」などのスロット4号機によって、スロットブームが加速した。
平成14年

18年
パチスロ4号機のブームに乗って、バビデの躍進時代が到来した。

平成16年
パーラーバビデ佐久店
新規グランドオープン

平成16年
8月14日
パーラーバビデ佐久店を佐久市中込に、新規グランドオープン。設置台数448台。
満員御礼の駐車場

パーラーバビデ上田西店増床

平成17年
8月11日
パーラーバビデ上田西店を増床、設置台数640台に。
平成19年
パチンコ低玉貸時代が始まる
バビデはいち早くブームに乗り、全店で1円パチンコを導入する。
平成20年
貸玉価格の多様化が始まった
1円パチンコだけではなく、2円や0.2円パチンコ。更に10円スロット、5円スロットや2円スロットまで登場した。
平成29年
高射幸性遊技機の撤去
パチンコのMAX機が全面撤去となり、市場から姿を消した。ギャンブル依存症が社会問題となり、その対策が始まった。
佐久店増床
設置台数555台に増台。
平成30年
風営法規則改正が施行
パチンコ業界を取り巻く環境が厳しさを増し、市場規模の縮小が止まらない。

パチンコ業界は冬の時代を迎える
これを乗り切るために
社員一致団結し、奮闘中!

この(株)バビデの歴史の年表を作成するにあたり各遊技機メーカーのご理解と、(株)アドサークルで昭和62年6月に発行された月刊「王様手帖」に掲載の「昭和12年、幻の第一期パチンコ黄金時代を探る」から日の出会館と小山仲治の記事を引用させていただきました事に深く感謝申し上げます。